幸せになるって、簡単だ
そういえば、今日食べた酢豚はとてもおいしかった
昨日やったフットサルはめちゃくちゃ楽しかった。
フットサルは一か月でだいぶ上手くなって、強いシュートをけれるようになった。
まだまだドリブルやパスワークは難しいけど。
おととい友達と食べた牛丼は美味しかったし、
今日指導した塾の生徒はなんだかんだ終始笑顔だった。
「僕って、幸せだ」とは普通ならない。
今日はめっちゃ寝坊して塾に行くのギリギリになったし、
なんだかんだでブログも一週間さぼったし、
1日にやるって決めたはずの英語のセンター試験過去問は2日に一回くらいしかやれてない。
それにくらべてあの子はどうだ。
めちゃくちゃきれいで周りにちやほやされてるし、ツイッターに投稿するたびに何百いいねってつくし、今日もどうせお金持ちの社会人に美味しいお店連れていってもらったに決まってる。
大衆食堂で酢豚食って喜びを感じてる僕とはえらい違いじゃないか。
隣の芝はいつだって青い。
非リアの僕に比べてあいつには彼女がいる
彼女はゼミ発表で教授にめちゃくちゃ褒められていた
彼はフットサルで一人で突破できる力があるけど僕にはない
あの子は第一志望の内定を取ったって
自分と周りを比べれば、周りの方がいかにすごいかがSNSを通して伝わってくる
そんな時代だ
自分がいかに「劣等性」を持っているかを思い知らされる
劣等性を克服しなければ、自分は幸せになれないことを自覚する
「持っている人」ってほんの一部だ
その他大勢は「持たざる者」
僕もその一人
「持たざる者」は、ただひたすらに努力して、「持っている人」に追いつこうとする。
多くの場合、その期間中は幸せではない。
では、「持っている人」になったとして、その人は必ずしも幸せなのだろうか?
プロスポーツ選手や、各界の名人たち、国家公務員たちは、本当にみんながみんな幸せなのだろうか?
上には上がいる。
どんなにサッカーが上手くなっても、メッシ選手やネイマール選手には一生叶わないかもしれない。そんな彼らと引き比べて、プロサッカー選手の中には劣等感を感じている人がいるかもしれない。
隣の芝はいつだって青い。
どんなに自分の芝をきれいに整えても、
目の前にはゴルフ場みたいに馬鹿でかい芝生が現れる。
そんな状態では、一生幸せになれない。
アドラー心理学を唱えたアルフレッド・アドラーは次のように述べている
健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、
「理想の自分」との比較から生まれる
「嫌われる勇気」より
他者と引き比べて自分の劣等生を実感していては、本当の幸福を手に入れられるのはこの世で最も優れた人間だけだ。
そうではなくて、「理想の自分」と「今の自分」を比較して、その差をなくしていく作業の中に、幸福を感じたい
僕が塾で見ている生徒は、いつも
「クラスの友だちだったら、こんな問題1分で解いちゃうよ」
と自分を卑下する。
だから僕は、
「おお!この問題解けたじゃん!前解けなかった問題が解けたんだから成長だよね」
と声をかけるようにしている。
そういう成長の一歩一歩に、幸せを感じてほしい。
「理想の自分」に向かう道すがら、色んな楽しいことがあると思う
・友達とご飯に行けるかも
・また問題が一つ解けるようになるかも
・研究の成果が意外と褒められるかも
・尊敬する人と出会えるかも
・美味しいご飯が食べれるかも
・今日もゆっくり夜眠れるかも
・明日は友達とカラオケで歌えるかも
そんな小さな幸せを一つ一つ実感しながら、
少しずつ理想の自分に向かって歩いていきたい。
そんなことを考えた、深夜3時。